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Manel Queralt - inici

私について

片手にバケツを持ち、もう片手にはハケを持っているのだろう。時々、立ち止まって手探りで空気に絵を描き始めるのだろう。絵を描いていないこともありえるのだが、例え今この時に絵を描いていたとして誰もそれを見てくれなくても彼の手を止めることはない。

しばしば一人で話していたり話しているように見えるにも拘らず、もし振り返ってみるならば、殆ど誰とも話すことなく時間を過ごしているし、例え話していたとしても独り言のように話して、毎日の時間の大部分を充てていると言う事もできる。

彼の詩というのは感情の絡まったもの、最も深い苦悶と同時に最も狂おしいほどの喜びの混ざり合ったものであり、これは実際にバケツと最もあり得るその中身の構成に関する我々の仮説を証明することだろう。隔絶に穴を開けその不躾な沈黙の後ろにあるものを追い出そうとする切羽詰まった必要性を正当化する言葉の数々。

いつかある日、深くその反面難しい友情を前提として、彼らの言葉を借りるならば、バケツの中には沢山のクズがあるという彼らの恐怖心を我々に告白するようになるだろう。

すべての書かれなければならない詩は、しばしばバケツを空にするという到達できるかどうか分からないプロジェクトの一部を成しているというのは明らかなことである。これも、他のケースのように、死んではいないという形の一つである。



マネル・ケラル・イ・ウトリリャ(1959年、バルセロナ)。システム・エンジニア。カタラン語で出版された詩的作品は Xiscle(1990年), Ena menys una(1992年), Druda(1995年), Trit(2000年), Miserere(2004年), Vacu, l’ésser sofrent(2004年), Nicis (2005年)があり, Obra poètica 1990-2006 には上記の作品と新たに2つの作品 Ecs, perpetuum mobile と Atziacs が収録されている。 スペイン語に訳された作品にはChillido(2004年), Ene menos una(2005年), Druda, el vigilante de la obra(2006年)がある。 また、日本語訳を加えたカタラン語・スペイン語のバイリンガル・バージョンの同作品はバスク語、朝鮮語、フランス語、スウェーデン語にも訳されており、他言 語の翻訳も準備中である。
作者について
人というものは、自分の身近な環境、例えば自分が生きた歴史的瞬間やもっと重要な要素である自分を育んだ文化との相互作用の産物である。マネル・ケラルもその意味で全くの例外ではなく、ケラルの作品からは彼を取り巻いている文化、それは彼が何度も何度も否定した物質文化であり、そしてそれと共栄している社会に住んでいながらもそこに同調することの出来ない彼の窮屈な思いや慣習に囚われない気風が滲み出している。

マネル・ケラルのアイデンティティーはカタルーニャに見いだすことができる。そのカタルーニャとは政治的には切り離され、言語的には追い詰められ、経済的には虐げられ、歴史的には打ち負かされた土地である。この闘争心と意気消沈、お祭り気分とうち沈んだ気持ち、勝ち誇った思いと敗北感の入り混じった感情がケラルの作品の行間から滲み出てくるのである。時々、作者がそれとなく垣間見せるこの諦めて投げ出してしまうような感覚は、彼自身の崇高なもの、完璧さや絶え間ない克服との闘いと対照をなしている。

マネル・ケラルは、恐らく自分ではそれと気付かずに、ダリやガウディ、ミロやカザルスなどのように型破りで慣習に囚われず、それにもまして何よりも、頑固な芸術家であった人達と同じ気質を持つカタルーニャの人々の一人である。こういった人達のお陰で、単調さや画一性、凡庸さというものは全く影を潜めてしまっている。これが見解の相違が芸術にその道を譲る瞬間となるのである。

リカルド・ファウラ・イ・オメデス (Ricard Faura i Homedes)
2008年2月20日開通

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